第二話


 確信的に告げられたことへの怯えと、知らない男性に下着姿を見られていることに羞恥が募り、橙子は己の体を抱き締めて丸く縮こまった。

 野良オメガとは〝オメガ性変質障害〟となった者を指す。
 出生時の血液検査でベータと認定された者が、まれにオメガへと変質することがある。原因は解明されておらず、何歳で変質するのか等の研究も進んでいない。
 もともと野良オメガの数が少ないせいもあるが、オメガ性に変質したベータがその事実をひた隠しにするからだ。

 被支配者層であるオメガは常に虐げられる立場にあり、彼らの歴史は差別と迫害の歴史でもある。今でこそ発情期を抑え込むことで人権を認められるようになったが、それでも彼らに対するネガティブなイメージは完全に払拭ふっしょくされていない。
 ゆえに凡人ながら平穏な人生を送るベータにとって、最下層に堕ちることなど到底受け入れられないのだ。親兄弟も隠す傾向にある。
 そのうえ現在のオメガは国に完全管理されている。
 進学・就職・結婚のいずれも自らの意志で自由に決めることが叶わず、国外からも人権侵害との批判が根強いほどだ。

 そのためオメガに変質した者はそのままベータを名乗り、墓場まで秘密を持っていく。
 彼らは〝国の管理から逃れた放浪するオメガ〟との意味を込めて、野良オメガの俗称で呼ばれていた。
 そのことを指摘された橙子は、震えながらも美貌の男性をキッと睨みつける。

「違います、私はベータです。あのとき私の近くにオメガがいて、その人のフェロモンが移っただけです」
「それを信じる馬鹿がいると本気で思ってるのか」
「でも、本当です。そしたらヒート化したアルファが襲ってきて……私だって怖かったんです……!」

 身を乗り出していた男は溜め息を吐くと、上体を起こして腕組みをする。尊大な雰囲気の見知らぬ他人から厳しい視線を刺され、橙子は唐突に吐き気を感じた。
 口に手を当てて嘔吐感をこらえていると、彼が眉を顰める。

「どうした? 気持ち悪いのか」
「……いえ、ちょっと、お腹が空きすぎただけです」

 そういえば目を覚ましたのも、気持ち悪さが原因だったと今になって思い出す。
 すると男が椅子から立ち上がった。

「何か食べる物を用意する」
「いっ、いえ、それよりも帰らせてください」

 弱々しく訴えたものの、ジロリとひと睨みされて口をつぐんだ。それでも部屋を出ようとする男の背に声をかける。

「待ってください、私の服は……」
「汚れていたからクリーニングへ出した。服ならその部屋にあるやつを好きに使え」

 男は部屋の隅にあるドアへ顎をしゃくって出ていった。
 橙子は迷いつつもシーツを被ってベッドから降りる。ドアを開けたそこはウォークインクローゼットだった。女性の服やバッグ、帽子などが大量に収納されているのだ。

 ――これ、誰かの持ち物よね……?

 勝手に借りていいのだろうかと不安を抱く。が、下着姿のままでは心許こころもとないし、あの男が戻ってきたときに人間らしい恰好ぐらいしていたい。しかもありがたいことに、クローゼットのぬしのサイズは自分と同じだった。
 とはいえ、どの服にもファッション雑誌でしか見ることのない、高級インポートブランドのタグが煌めいているから目に眩しい。これほどのハイクラスの服など買ったことがない。
 ……なんとなくだが、これらの持ち主は自分より若い女性ではないかと感じた。自分もまだまだ若いと思っているが、ここにある洋服の趣味を鑑みると二十代前半ぐらい――大学生っぽい気がした。

 己の好みより少し派手な服が多いため、大人しめの紺色ワンピースを手に取る。試着してみればデザインとシルエットが実に美しく、さすが高級ブランド、とこんなときでも感動してしまう。
 生足なのが恥ずかしいが、さすがに他人のストッキングは借りにくいため、そのままクローゼットを出た。

 まだあの男は戻っていない。
 このまま逃げてしまいたい、と部屋の中をウロウロするものの、帰る方法は思い浮かばなかった。自分の荷物が見当たらず、スマートフォンも財布もなければ靴もないのだ。
 置時計の針は午前一時を指している。もうそんな時間なのかと、いったいいつ解放されるのかと溜め息を漏らしたとき、部屋のドアが静かに開いた。

 例の男が、スーツ姿の男性を伴って入ってきた。使用人らしきその人は、先ほどの女性を引き取っていった人だ。彼はワゴンを押して部屋の隅に向かうと、大きめのテーブルに食器を並べていく。
 すべてをセッティングをし終わると、その人は橙子へニコリと微笑んで頭を下げた。
 慌てて会釈を返した際、橙子がいる位置まで食欲を刺激するいい香りが漂ってきた。その途端、ぐー、と腹の虫が声高に主張して恥ずかしさでうなだれる。

「……すみません、朝から何も食べていなくて……」
「早く食べろ」

 アルファ男性が素っ気ない口調で言い放つ。静かに使用人が部屋を出ていくと、橙子はおそるおそるテーブルに近づいた。
 艶やかな卵黄が中央に乗ったお粥、トマトと青菜が入ったスープだった。夜食として食べやすいメニューだと橙子は思う。

「いただきます……」

 卵黄を崩しつつお粥を口にすると、しょうがの風味が効いた優しい味わいだった。豆腐が入っているようで食べ応えがある。
 スープには春雨が入っており喉越しがいい。どちらも中華風だが柔らかな味つけで、夜遅い時刻に食べる料理としては申し分なかった。
 しかし食べている間、正面の席に座った男がじっと見つめてくるので、ものすごく気まずい。

「……あの、すごく、美味しいです」
「そりゃよかった」

 あいかわらずの冷淡な口調に、この男は基本的に愛想を持ち合わせていないと悟る。だが先ほどの女性にはとても優しい雰囲気のうえ、微笑を浮かべていた。
 もしかして恋人だろうかと頭の片隅で考えていたとき、彼が言葉を続ける。

「朝から食べてないって、休憩も取れずに残業していたのか?」
「……はい」
「たいしたブラック企業に勤めてるんだな」

 その通りなので何も言い返せず、無言で空腹を満たすことに専念した。視線を手元に落としてレンゲを動かす。
 が、他人を観察するあからさまな視線をビリビリと感じて恐ろしかった。何もかも見透かすかのような眼差しに、自分が細胞レベルまで暴かれるイメージを抱く。
 身の置き所がなく、まるで動物園の猿になった気分だ。
 それでも料理は綺麗に平らげた。

「……ごちそうさまでした」

 気まずい食事だったが、味は文句なく美味しかった。お茶もいただくと体がポカポカと温まって、このような事態だというのに眠気を感じる。

「あの……、もう、帰ってもいいでしょうか……」

 途端にイケメンから白けた眼差しを向けられた。

「ヒート化したアルファから助けて保護したうえ、飯を食わせてやったんだ。対価は?」
「えぇ……」

 たしかに道端で昏倒したが、自分を追ってきたアルファたちは自分で撃退した。しかも食事は頼んだわけではない。なんて理不尽な。
 そう思ったものの倒れたところを助けてもらったことに変わりはない。おまけに食べてしまった料理は返せない。

「目的は、なんですか……?」
「特にない」

 ……この人、何が言いたいんだろう。橙子は眉根を寄せて美しすぎる容貌を見つめつつ、脳内に大量の疑問符を浮かべる。
 視線の先にいる美男子は腕を組んで宙を見つめると、数拍の後に橙子へ視線を向けた。

「そうだな、オメガなら愛人かセフレでもやってもらおうか」
「なっ、なんでそうなるんですか!」
「オメガを助ける旨味なんて、セックスぐらいしか思いつかん」

 露骨な言葉に橙子は紅潮する顔を伏せて唇を噛み締める。
 オメガは昔から子を産むだけの存在と言われていた。彼らは催淫フェロモンを放つ発情期に入ると性衝動を抑えきれなくなり、オメガフェロモンにあてられたアルファはヒート化する。この状態の両者が性行為をすると人の殻を捨てた獣となり、極上の快感を得ることができるという。
 ゆえにオメガの発情期を〝ビースト〟と揶揄やゆするのだ。

「無理です……私、そういうの、できません……」

 手触りのいいシルクスカートをギュッと握り締め、喉の奥から声を絞り出す。
 淡々とした男の声が降ってきた。

「まあ、俺もこの手じゃ女を抱けないから、今すぐってわけじゃない」

 橙子が顔を上げると、彼は自分の左手を忌々しそうに見下ろしている。
 そこでふと疑問が浮かんだ。この人を初めて見たとき、たしか左手でスマートフォンを持っていたような記憶がある。気のせいだろうか……?

「あの、奥様は、ご結婚はされていないんですか?」
「俺は独身だ」
「……そうですか」

 では愛人というよりセフレだ。それか愛玩動物。どちらにしろ体を差し出さねば秘密を暴露されるだろう。名前も住所も勤務先も知られてしまっては逃げられない。

「別に断ってもいいぞ。おまえの身元は控えたから、オメガセンターに通報するだけだ」
「止めてください!」

 反射的に立ち上がって叫ぶと、男は器用に片方の眉を持ち上げる。その冷ややかな反応から、自分を国に突き出すなどためらわないとの予想ができて、胃を絞られるような痛みを感じた。
 現在、野良オメガは取り締まりの対象になっている。
 オメガ人口を少しでも増やしたい国の意向により、オメガ性に変質した者は速やかに名乗り出ることが法律で定められている。
 隠匿いんとくした場合の罰則も定められており、野良オメガをかくまった者も同罪となる。

 橙子にも秘密を共有する協力者がいた。両親と兄、そして父方の伯父と祖父だ。
 特に伯父と祖父は個人病院を経営しているため、発情期抑制剤や緊急用の特効薬、発情期誘発剤など、オメガのみに処方される薬をひっそり渡してくれる。
 自分が捕まったら伯父たちも罪に問われ、罰せられるのだ。

「じゃあ、どうする?」

 男の冷酷な声に、橙子は逃げ道が完全に塞がれたことを悟った。
 それでも見知らぬ他人と肌を合わせるなど抵抗感が大きすぎる。

「……少し、考えさせてください。お願いします……」

 泣きそうな声でボソボソと答えれば、「分かった」とあっさり了承された。
 拍子抜けするほどすんなり受け入れられたため、橙子は視線を上げて激しく目を瞬く。

「今日はもう寝ろ。この部屋の住人は滅多に帰ってこないから好きに使え。内鍵もかかる」

 そう言いながら立ち上がった男は、空になった食器を重ねて持つと部屋を出ていった。
 傲慢かつ冷淡に脅迫してくる割には、強引なことをしない男の矛盾した態度に、橙子はしばらくのあいだ動けなかった。
 やがて貞操は今のところ守られたらしいと安堵する。しかし彼が何を考えているのか分からないうえ、今すぐ逃げ出したいのに逃げられない状況が恐ろしい。
 肩を落とした橙子は泣きたい衝動をこらえながらテーブルに突っ伏す。その際、あの男の名前を聞かなかったことに思い至った。





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