第三話


「あなたがオメガを拾ってくるなんて、珍しいこともあるものですね」

 背後から声をかけられた八神やがみほまれ――橙子を助けたアルファ男性――は、食べ終わった食器を厨房のシンクに置いて振り向いた。
 こんな深夜だというのにきっちりとスーツを着用し、くたびれた様子を微塵も見せない使用人が微笑んでいる。その笑顔に意味深長なものを感じた誉は肩をすくめた。

「オメガフェロモンをダダ漏れにしたまま倒れたんだ。放っておくわけにはいかないだろ」
「そうですか。あなたにしては、たいへん珍しいことだと思いまして」

 その言葉に誉の形のいい眉が顰められる。

「何が言いたい」
「いえ、実佳子様がたいそう気にしておりましたよ。オメガ嫌いのあなたがオメガを助けたものだから、あの子はいったい誰なのかと帰り際にしつこいぐらい聞かれまして」

 ふふふ、と微笑みつつ優雅に話す彼――日下部くさかべは、興味津々であることを隠そうとしていない。
 使用人とは思えない大きな態度であるが、誉は何も言い返さず「一杯、付き合え」と告げて彼に背を向けた。
 日下部の父親が八神家の家令を務めているため、その息子とは生まれたときからそばにいる間柄だ。主従関係ではあるが、親友とも兄弟ともいえる。他人の目がなければフランクな会話も交わしていた。
 日下部の方も、誉が実家では本音を話せないと分かっているため、素直に主君のあとを付いていく。
 二人は広いダイニングルームに移動し、スコッチウィスキーを二つのグラスに注いで互いにネクタイを解いた。仕事は終わったとの合図に誉は大きく息を吐く。
 口火を切ったのは日下部の方だ。

「どうして実佳子様を呼んだんですか。面倒なことになると分かっていたでしょう」

 二歳年上の実佳子はオメガ性だが、誉の幼馴染の姉で、幼い頃からの知己でもある。さらに医薬品原料などを製造販売する大手企業の令嬢で、三人の子どもを持つ未亡人だ。夫君を去年、事故で亡くしている。
 オメガを嫌う誉にとって己の領域テリトリーに入れるオメガは、妹の柚香ゆずかと、姉的な実佳子だけだった。
 そして実佳子は亡くなった夫の喪が明けたら、誉と再婚したいと遠回しに幾度も漏らしている。そのたびに彼ははぐらかしているが。

「あの野良オメガの存在を、家のやつらに知られたくなかったんだよ。信用できる使用人なんておまえぐらいだが、女性の介抱なんて頼めないだろ」
「ああ、それで実佳子様に頼んだというわけですか。オメガ同士なら安心するかもしれませんね……でも女性のお世話ぐらい私でもできましたよ。妻以外は興味ありませんし」

 愛妻家の日下部なら、若い娘の服を脱がして介抱することなど、仕事の一環だと割り切ることができる。ベータの彼はオメガフェロモンも効かないので、眉一つ動かさずに世話をするだろう。
 それを十分、理解しているはずの誉は無言でスコッチを味わっている。いかにも「指摘されたくない」との態度に、誉を幼いときから知っている日下部は目を見開いた。

「え、まさか自分以外の男に触らせたくなかった、とか?」
「違う」
「ってことはもしかして彼女、あなたの〝運命〟のお相手ですかっ?」
「違う」

 きっぱりと否定したのに、日下部の瞳が輝き出したのでウンザリする。
 アルファにとって運命の相手とは、一つの魂を分け合う己の半身とも呼べるオメガのことを指す。〝つがい〟とも呼び、アルファもオメガも理屈抜きに本能で相手に惹かれ合うという。愛情を介して永遠に結ばれる、ただ一人の存在だと。
 しかし現在はオメガの人口が激減したことで、運命の相手と出会う確率は限りなく低くなっている。誉も番いを得たアルファなど見たことがない。
 それなのに日下部は身を乗り出してくる。

「まさかあなたの番いが、野良オメガだとは思いもしませんでしたよ!」
「だから違うって言ってるだろ。別にあの子を見ていても、なんとも思わないし」
「でも助けたじゃないですか。オメガなんて見向きもしないあなたが。しかも柚香様の部屋を貸し与えるなんて、同じオメガの実佳子様にはそんなことしないでしょ」

 反論できない誉は行儀悪く、「チッ」と舌打ちする。すかさず日下部が、「舌打ちしちゃいけません」と、まるで父親か兄のような口調で叱りつけてきた。
 日下部は童顔で、三十二歳の誉と変わらない年齢に見えるが、六歳も年上なのだ。
 誉は鬱陶しそうに溜め息を吐き出す。

「そう言われると思ったから話したくなかったんだ」
「それじゃあよけいに、実佳子様を使ったのはまずいですよ。あの方の気持ちはご存じですよね?」
「彼女は姉のような人だ。向こうだって分かってるだろ」

 バッサリと言い切る誉に、日下部は生ぬるい顔つきになった。

「老婆心ながら忠告しますけどね~、その尊大な態度を改めないと、いつか困ることになりますよぉ~」

 上から目線で忠告されてムッとした表情になる誉だったが、素直に「なぜ?」と尋ねてみた。

「野良オメガさん、あなたの顔に見惚れなかったじゃないですか」
「それが?」
「初対面の女性って、お綺麗な顔にポーッとするのがほとんどでしょ。つまり彼女に顔は通用しない」
「だから?」
「あと彼女、部屋の豪華さには気づいていたはずです。使用人の私もいましたから、あなたが富裕層セレブだってこともたぶん察している」
「で?」
「ちなみに彼女、私が会釈をするとちゃんと挨拶を返してくれましたよ。あなたの地位や財産が目当ての女子だと、使用人なんて軽~く見下してきますけど」
「そうだな」
「あの子のような常識人って、身の丈とか釣り合いってものを、よーく分かってるんですよ。ベータとして生きてきたなら、アルファとは住む世界が違うって、恋愛対象にはならないって刷り込まれているでしょうし」
「……ああ」
「つまりですね、あなたの美貌や身分やお金は、彼女にとって魅力的に映らないんです。人間性で勝負するしかない。なのにその態度じゃねぇ~」

 ニヤニヤと笑いながら締めくくった日下部に、誉は嫌そうな表情を見せてスコッチを一気に呷った。
 もう寝る。と言い捨てて席を立つ雇用主へ、立ち上がった日下部は「おやすみなさいませ」と慇懃無礼に頭を下げたのだった。

          §

 保護という名のもとに橙子が連行されたこの部屋には、ありとあらゆるものが用意されていた。
 趣味のいい収納家具の扉の中にはミニ冷蔵庫まであり、やはりここはホテルなのでは、と首をひねる。
 おまけに大理石が敷き詰められた広くて美しい洗面所には、海外コスメブランドがずらりと新品でそろっていた。これを使っても本当にいいのかと恐ろしくなるが、メイク落としやスキンケア類など持ち歩いていないから仕方ない。
 アルファ男性から、「部屋にあるものは好きに使え」と言われていたのもあって、おそるおそる封を開けることにした。
 シャワーを浴びてサッパリし、備え付けのバスローブを着てミネラルウォーターをいただくと、ようやく人心地がつく。
 さすがに猛烈な眠気が襲ってきた。
 キングサイズの大きなベッドに寝転び、あっという間に夢の世界へと旅立っていく。
 おかげでノックの音を聞くまでまったく目が醒めなかった。


 トントン、との控えめな音で瞼を持ち上げた橙子は、カーテンを開けっ放しにしていた窓から、眩しいほどの太陽の光が差し込む様子を認めた。数秒後に勢いよく体を起こす。
 慌てて置時計へ視線を向けると、午前十一時を過ぎていた。
 アワアワとうろたえながら借りたパジャマの乱れを直し、急いで扉に近づく。内鍵を開けて扉の隙間から外を覗くと、昨夜見た使用人らしき男性が立っていた。

「おはようございます、水谷様。お食事はいかがいたしましょうか」

 深夜まで働いていたはずの彼は、あいかわらずパリッとしたスーツ姿で清潔感が際立っている。それに対して橙子は寝起きの顔で髪もボサボサだ。
 思いっきり羞恥心が湧き上がり、「身支度をしてから、いただきます……」と情けない声しか出せなかった。

「では一時間後にご用意いたします」
「え、いえ、そんなにもかかりません」
「では三十分後で?」

 橙子が頷けば、彼はニコリと小さく微笑んで一礼し、去っていった。
 執事という職の人だと思われるが、ああやって笑うとまだ若い人物のように感じられる。
 ……そこで悠長に考えている場合ではないと思い出し、慌てて洗面所へ飛び込んだ。

 この部屋にはウォークインクローゼットの隣にドレッシングスペースがあり、メーキャップ用化粧品もやはり新品で揃えられている。さすがにそれを開封することはためらわれたため、手持ちの化粧品で適当なメイクをすることにした。
 服は昨夜と同じワンピースを身に着ける。
 きっかり三十分後、ノックの音と共に先ほどの男性が扉を開けた。その途端、ふわりといい香りが漂ってくる。昨夜嗅いだ香りと同じものだ。例のアルファ男性も部屋に入ってきたため、彼が使うフレグランスかと思う。

「……おはようございます」

 軽く頭を下げておいたが、相手はうんともすんとも言わずにこちらを一瞥するだけだった。そのままテーブルへ近づき、ぞんざいにファイルを置くと椅子に腰を下ろす。
 橙子としても彼と仲良くしたいわけではないから構わないが、いい気分でもないので同じテーブルに着きたくない。
 だが使用人らしき男性にうながされて、仕方なくアルファ男性の正面の席に座った。
 驚いたことに食事は二人分も用意される。

「えっ、ご一緒に召し上がるんですか……?」

 気まずいんだけど、との気持ちを露骨に顔へ出せば、「食べながら話した方が早い」とアルファに言い返される。
 忙しい人なのだろうか。だったら私のことを追い出してくれたらいいのに。と心の中で舌を出しつつ手を合わせた。

「いただきます」

 シーザーサラダ、かぼちゃのスープ、数種類のサンドイッチというメニューだった。
 もう昼に近い時刻のせいか、サンドイッチの具はローストビーフやベーコンなどの肉類をふんだんに使っており、ボリュームがある。
 かぼちゃのスープは甘くて滋味深く、実に美味しくて絶品だ。
 どう作ったらこれほど深みのある味になるんだろう。感心していたら目の前に座る美男子が口を開いた。

「おまえの処遇を考えていたんだが、野良オメガであることを隠すかわりに、被験者としてうちの研究に協力してもらう。相応の金は払う」
「……は?」

 突然の話に橙子は目を白黒させる。数秒後、我に返ってナプキンで口元を拭いてから声を発した。

「質問したいのですが……」
「ああ」
「被験者って何をするんですか」
「遺伝子解析や治験ちけんだな」

 オメガ性変質障害のメカニズムの研究をしている部門に、橙子を紹介するという。その研究所は、彼の父親が代表取締役社長を務めるホールディングカンパニーの傘下にあると語った。
〝八神ホールディングス〟との名前を聞いた橙子は、手に持っていたスプーンを危うく落とすところだった。
 製薬メーカーとして国内首位に立つ巨大企業ではないか。日本人で、グループの中核企業である八神製薬株式会社を知らない者はいないと思う。橙子が飲んでいる新型発情期抑制剤も、八神製薬が数年前に開発した薬だ。

 まじまじと、整いすぎて無機質さを感じさせる美貌を凝視する。お金持ちだろうなと感じていたが、日本有数のセレブとは思わなかった。本物の上流階級のアルファ様とは。
 そして橙子は心の片隅で、彼の話は嘘ではないだろうと納得していた。
 拾った人間へ貸し与えるには広すぎる豪奢な部屋。ウォークインクローゼットに収納された高級ブランド服の数々。常に控えている使用人らしき人間。と、庶民ではありえない状況を見せつけられているから。
 思わず呆けてしまう橙子に対し、アルファは淡々と話を続けた。

「オメガが初めて発情期を迎えるのは、だいたい思春期の頃だ。しかし野良オメガだと個体差があって、三十代で突然発情したという記録もある。通常、ベータは抑制剤なんて携帯していないから、外出中にいきなり発情期が始まったら悲劇だ」

 昨夜の橙子のように、近くにいたアルファをヒート化させて襲われてしまう。
 野良オメガが集団で暴行される事件は、一年に一回程度は発生していた。そういった事件はオメガだけでなく、妻子がありながらヒート化して理性を失ったアルファにとっても悲惨だ。厳罰を科せられるから。
 そのような被害を防ぐためにも、オメガ性変質障害の研究は必要だと彼は語る。
 食べながら話を聞く橙子は意外な気持ちを抱いた。野良オメガの研究というから、単に少しでもオメガを増やしたい目的だと考えたのに。

「でも野良オメガとして協力するということは、私の正体を、その、バラすってことですよね……」
「もちろんおまえの素性は隠す。偽名でいい。俺の友人――アルファの結婚相手が、偶然野良オメガだったという設定にする。きちんと国に保護されているオメガなら、研究員も丁重に扱う」

 その言い方だと、フリーの野良オメガなら雑に扱われると聞こえた。恐ろしい。

「でもお金を払うって、どういう……」
「研究協力者に報酬を支払うのは当たり前だ」

 それは素晴らしい意見だが、秘密を隠すかわりの強要なのに、報酬が発生することに違和感を抱く。――そりゃあ、タダ働きよりはずっといいけど。
 愛人かセフレにすると言っていた件はどうなるのか。橙子がちらりと彼の左手へ視線を向ければ、いまだに真新しい包帯がある。
 ……指摘しないでおこう。彼が忘れたままであれば、こちらとしてもありがたい。
 気を取り直して美味しいサンドイッチをもぐもぐと味わっていると、彼がさらりと言葉を続けた。

「それと、おまえには転職してもらうから」
「……はあぁっ、なっ、なんでですか!?」
「おまえの勤務先を調べたが、かなりのブラック企業だな。あんなところで働いていたら研究の邪魔になる」
「いやでもっ、研究への協力と転職は関係ないのでは!?」
「仕事帰りに研究所へ寄ってもらうこともあるが、時間は作れるのか? 有休は自由に取得できるのか?」

 橙子はグッと言葉を飲み込んだ。ここ半年ほど定時に仕事が終わったためしはないうえ、有休をとろうものなら休日出勤させられる。おかげで有休など入社以来、一度も取得したことはない。
 橙子の蒼ざめた顔で事情を察したのか、彼は「話にならん」と言い放った。その通りなのでうなだれてしまう。

「……転職って、その研究所に、ですか……?」
「いや、研究所員は戸籍謄本の提出が必須になるから駄目だ。偽名とバース性がバレるだろ」

 戸籍には本人のバース性が記載されているのだ。そのため彼は、自分の会社に転職させると告げた。
 彼が差し出してきたファイルの書類を見て橙子は首をひねる。
 株式会社SALTOサルトという企業の入社承諾書、誓約書、雇用契約書に、厚生年金保険等の各種手続き用の書類だった。
 現在の勤務先に入社する際に目にしたものと、ほぼ同じ内容である。
 SALTOは彼いわく、金融系IT企業だという。橙子は書類と美男子の顔を交互に見つめた。

「えっと、あなたはオメガの研究をしている方じゃないんですか?」
「違う。俺は研究所とは……八神グループとはまったく関係ない。ただ、知り合いが八神の研究員になってるから、そいつにおまえを預ける」
「はあ」

 父親が八神ホールディングスの社長ということは、彼は御曹司という立場になる。八神グループに就職しなくてもいいのだろうか。――私が気にすることじゃないけど。
 橙子は気を取り直して書類の文字を読み込む。
 渡された書類には、きちんと自分の名前が印字されていた。ここに運ばれたのは昨夜の夜遅くだというのに、よくこれだけ準備できたものだと感心してしまう。
 そして労働条件通知書に記載されている内容は、かなりいい条件だった。まあブラック企業で長く働いていると、よその会社の待遇はすべてよく見えるのかもしれないが。
 そこでちらりとアルファの顔を盗み見る。
 今の会社から離れられるなら、もう転職先はどこでもいいと考えるほど自分は追い詰められていた。転職した後、オメガ研究にそれほど役に立たず、短期間で新しい職場を追い出されても構わないと思うほどに。だが……

「あの、ちょっといいですか」
「なんだ」
「私はもともと今の勤務先を辞めたいと思っていました。でもずっと引き止められて辞めることができません。それは――」

 どうしたらいいですか、と続けようとした言葉は、「馬鹿か」との容赦ない台詞にバッサリと切られた。

「会社員には退職する権利があるんだ。辞めたいなら退職届を上司のデスクに叩きつけておけ。それでおまえは退職の意思を会社へ伝えたことになる。できないなら内容証明で郵送しろ。退職届を提出したことになるから」
「そっ、そうなん、ですか……」
「不安なら労働問題に詳しい弁護士を紹介する。費用はこちらが出すから相談してみるといい」

 その言葉に、綺麗な顔を穴が開きそうなほど注視してしまった。

 ――え、なんでそんなに親切なの? そんなに野良オメガの被験者が欲しいの? いや、オメガの愛人かセフレがいいんだっけ? いやいや、それでもここまでしてくれる意味が分からないんだけど。今の会社を死ぬ気で辞めてこいと言われても、こっちは逆らえないんだから。

 呆然と固まっていたら、美男子がこちらを睨みつつ「食べろ」と素っ気なく言い放つ。
 そこで料理が冷めつつあることに気づいた橙子は、慌ててスプーンを手に取った。ぬるくなっても美味しいスープを味わっていたら、アルファ男性は早くも食べ終えて席を立つ。

「あとで弁護士と家令を寄こす。詳しいことは彼らに聞け」

 そう言い捨てて、さっさと部屋を出ていった。本当に忙しい人のようだ。
 部屋に残された橙子は重くて長い溜め息を吐き出す。
 なんとなくだが、彼は自分に対し嫌悪のような感情を抱いているように思った。憎しみとまではいかないが、腹立たしさとか苛立ちといった種類のもの。
 まあ支配者層のアルファ様なら、底辺を這いつくばるオメガは汚らわしい存在なのだろう。そう思う人はまだまだ多い。彼もそういった、アルファはアルファ同士でつどい、つがうべきと考える〝純血主義〟なのかもしれなかった。





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