第四話


 世界を支配する優秀なアルファ性を産むことができるのは、両親の組み合わせがα×α、またはα×Ωに限定されている。
 α×βのカップルでアルファが生まれた例はほとんどない。

 一九二〇年ごろからα×αカップルにおける出生率が低くなり、アルファと被支配者であるオメガとの組み合わせが急増した。この場合、九割の確率でアルファの子どもが誕生する。
 ただ、優秀なアルファの血統にオメガの血が混じることを嫌って、純血主義を掲げる一族もあった。彼らは人工授精でアルファ同士の子孫を残しているが、それでも少しずつ数を減らしている。

 そしてα×Ωカップルだとオメガが一割しか生まれず、オメガ人口は急速に減少し絶滅危惧種となった。それに伴ってアルファの人口もゆるやかに減り続けている。
 アルファの人口減少を危惧した政府は、一九七〇年にオメガを国家で管理する「Ω新法」を施行。確実にアルファを産むことができるオメガは、生まれたときから国に管理される。
 アルファによるオメガの奪い合いにならないよう国に保護され、アルファに襲われることなく法に守られる。社会において優遇されるアルファでも、配偶者以外のオメガを襲った場合は厳罰が科せられるのだ。

 オメガはその代償として、「お見合いシステム」に組み込まれることになる。

          §

 軟禁状態だった部屋から解放された直後の月曜日。
 橙子は朝一番で上司に退職の意思を伝え、笑って誤魔化そうとする彼のデスクに退職届を置いて仕事を始めた。が、午前中の外回りを終えて戻ってくると、デスクの上にはビリビリに破かれた退職届がばら撒かれていた。
 仕方なく転職を強要したアルファ男性――誉と連絡を取り、紹介された弁護士の浅倉に退職代行の手続きを取ってもらった。

 弁護士が交渉の場に立った途端、会社の態度がそれは見事に激変した。
 橙子の退職を認め、未払いの残業代と正規の退職金を支払うことを約束し、溜まりに溜まった有給は買い取ってもらえることになった。弁護士の力は偉大である。
 ただ、就業規則により退職まで一ヶ月間の引き継ぎ業務を定めているため、それは守ることにした。浅倉は二週間で辞められると教えてくれたが、残される同僚のためにも引き継ぎはきちんとしておきたい。
 ……それに、これで最後だから、少しでもオフィスに残っていたい不純な動機もある。
 まあ最大の理由は、誉が怖いので彼の会社に転職する期間を延ばしたいだけだった。
 しかしさすがはブラック企業。そのように甘い顔を見せてはいけないと、身をもって学ぶ破目になる。


 ……遠くからものすごい音がすると、橙子は夢うつつの状態で金属を叩きつけるような濁音を捉えた。どうやら自宅アパートのドアが甲高い悲鳴を上げているらしい。
 このとき自分が、見慣れた己の部屋の床に横たわっていると気づいた。視界に入る景色がぼやけて映るから、すぐに分からなかった。別に泣きたい気分ではないのに涙が止まらないのだ。
 そして体が動かない。なのに指先が痺れる。

 ――私、どうしたんだっけ……?

 今日は誉からの命令で、八神グループの研究所へ向かう予定だ。目を閉じて己の記憶を探る橙子は、しばらくして自分が倒れたことを理解した。

 ――そうだ……最近やたらと体が重くて、ご飯を食べていないのに食欲がなくって、悲しくもないのに涙が出てきて……

 何が原因かと考えれば、過労だとすんなりと答えが出る。もしかしたら軽いうつ病も入っているかもしれない。
 それというのも橙子の退職が決まってから、会社側のパワハラが陰湿なものに変わったのだ。表面上はにこやかな上司から、終電を逃しても終わらない業務を毎日押しつけられる。もちろん帰りのタクシー代など出ないから自腹だ。

 弁護士が背後にいると知っていながら、よくやるなぁ。と、最初の頃は眠気と疲労に負けそうになりながらも耐えていた。
 退職までの一ヶ月間を働くと決めたのは自分だ。それを数日で覆すのは何か負けた気がする。それに浅倉へ連絡を取れば、弁護士費用を出している誉にも事情が伝わってしまう。
 彼は好きなように扱える女へかける情けはないのか、通話でも実に素っ気ないし、会うたびに睨まれるから威圧感が恐ろしい。避けられるならば避けたい相手ナンバーワンである。なるべくこの事態を知られたくない。

 そして昨日の金曜日。日付が土曜日になっても帰宅できず、朝方までヘロヘロになりながら業務を片づけ、始発・・で帰るとすぐに仮眠を取った。一時間ほど前に起きてシャワーを浴び、ラフすぎない服に着替えて家を出ようとしたら……そこからの記憶がない。
 もともと半年間、終電までの残業を続けて疲労が蓄積していたのだ。そこへさらに過重労働が加わって、心身ともに限界を突破したのだろう。

 ――なんか目が回る……もう動きたくない……

 体が重いだけでなく、頭部の鈍痛がじわじわと思考力を削いでいく。横たわる床の硬さも気にならない。このままずっとここで休んでいたいと瞼を閉じる。
 そのときいきなり玄関ドアが開いた。

「水谷! しっかりしろ!」

 大音声と共に上半身が抱き起される。うっすらと目を空ければやたらと近くに誉の美しい顔があった。
 近いんだけど、と苦情を訴えようとするものの、ふわりといい香りに包まれて力が抜けた。しかも体に鉛を流し込まれたような倦怠感が消えて、頭痛もやわらいでくる。
 誉は苦手だが、彼が使うフレグランスは好きだった。何を使っているのか聞いてみたいと思うものの、話しかけるのが怖くていまだに聞けないでいる。

 ――八神さんの香り……なんだか安心するから不思議……

 不安や焦燥感が消えて心が平らかになる。気持ちが落ち着いていく橙子は瞼を下ろした。

「おい、大丈夫なのか!」
「あー誉様。心配なのは分かりますが揺さぶっちゃいけません」

 ――この声……日下部さんだ……

 日下部は誉に保護されたとき、そばに付き従っていた使用人の男性だ。使用人といっても職務は八神家の家令なので、家政婦のような仕事はせず、秘書的な役割を担っていると聞いた。
 誉と違って愛想がいいため、彼と話すのは実に楽で助かる。安心しきった橙子は一気に意識がぼやけた。

「黙れ。心配なんかしていない」
「はいはい、そうですか。でも水谷さんは病院に連れて行った方がいいですね。私が運びますよ」
「触るな」
「おっ、本音が漏れましたねぇ。左手はまだ治ってないのに大丈夫ですか?」

 すでに二人の会話が届いていない橙子は、浮遊感に少し混乱しながらも抵抗はしなかった。どこかに運ばれているのは感じていたがやたらと安心できて、ただ心地いい香りに包まれながら意識を闇の底へ落とした。


 その日、橙子を研究所に連れていく約束があったのに本人と連絡がつかず、誉は彼女の部屋にまで乗り込んできたという。
 どうやって部屋の鍵を開けたのかを彼には聞きにくいため、日下部に訪ねてみたところ、「私はピッキングが得意なので」と恐ろしいことを言われた。聞かなかったことにしよう。

 そして橙子は病院のベッドで治療を受けながら、誉に散々お説教を食らった。「あなたは私のお父さんですか」と言ってやりたいぐらい怒られた。
 なんのために弁護士を紹介したと思っている、きちんと食事と睡眠を取れ、予定ぐらい変えることはできる、倒れたまま誰にも見つからなかったらどうするつもりだったんだ、等々……
 まあ、迷惑をかけてしまったのは事実なので素直に反省する。研究所に行く予定をドタキャンしたし、入院した特別室の料金も誉が出してくれた。大部屋でよかったんだけど。

 そしてこれ以降、退職日までの残り半月の期間は有休を当てることになった。
 もう出社しなくて大丈夫ですよ、と日下部に言われて反駁したかったが、理由を聞かれると気まずいので大人しく頷いた。
 引き継ぎ資料は後輩に渡してあるため、ここで自分が抜けても業務に支障はないと思う。問題があれば連絡がくるだろう。
 会社側をどう説得したのか尋ねてみたが、「圧力に弱い中小企業だったので楽でした」とニッコリ笑って告げられたため、橙子も曖昧に笑っておいた。

 この世には知らない方がいいことなど山のようにある。と、アルファ優位の格差社会で生きていれば自然と学ぶ。
 八神グループはアルファの中でも特に財力と権力を有する、名門中の名門だ。権力者に逆らってはいけないと、嫌というほど思い知った。


 二日間の入院を終えて、退院日に迎えにきたのは日下部だった。平日の今日は誉が不在なため、橙子は心からホッとする。
 その様子を目ざとく見つけた日下部は小さく噴き出した。

「誉様が苦手ですか?」
「えっ、いえ、そういうわけでは……」

 その通りです、と言いたかったが笑って誤魔化しておく。
 日下部は穏やかな人でとても話しやすいが、八神家の家令に本音を漏らすほど己の警戒心は解けていない。
 彼は橙子を車の後部座席に座らせると、運転席に回ってステアリングを握った。

「まあ、誉様は態度が大きいですからねー。アルファなら当然ともいえますけど。ところで話は変わるのですが、私には妻子がおりまして二人をとても大切にしています。なので他の女性と交友関係を結ぶようなことはありません。お伝えしておきますね」
「……はあ、そうですか」

 この人、何が言いたいんだろう。橙子は日下部の後頭部を見つめながら盛大に首を傾げる。いきなり自分語りをし始めたので意味が分からない。
 視線の先にいる日下部は、クックッと声を押し殺しながら笑っている。

「急に変なことを言ってすみません。誉様に命じられたものですから」
「はあ、何をですか?」
「あなたが私に打ち解けてくださっているから、愛妻家であることを先に言っておけと」
「……それって、私が日下部さんに好意を抱くかもって意味ですか?」

 なんだそれ。ムッとした橙子は眉根を寄せて拳を握り締める。確かに日下部は話しやすい好人物だが、会ったばかりの人間だ。人となりをよく知らないで好きになることなどありえない。
 橙子の苛立ちを感じ取ったのか、日下部は赤信号で停まったときに振り向いてニコリと笑う。

「失礼な物言いですよねぇ。心配ならもっと違う言い方があるのに」
「……本当ですよ」
「ちなみに誉様の〝心配〟は、あなたに対してですよ?」
「分かっています。男に色目を使うなってことでしょう? しませんよ」
「うーん。その通りではありますが、ちょっと違うような……あの方は誤解をされやすい性格ですが、お優しいところもあるんですよ」
「そうですか」

 素っ気なく頷けば、苦笑を見せる日下部は前を向いた。橙子も視線を窓の外へ向ける。
 支配権でも主張したいのだろうか。それか、自由などないと思え、との圧力なのかもしれない。
 ……急に車内の空気が重く感じられた。己が籠の鳥であることを自覚して呼吸が苦しくなる。

 誉の支配から逃げられないかと、彼に捕まってからずっと考えていた。しかし幾度考えても、誉が握る自分の秘密がネックになる。
 本気で逃げたいならば、野良オメガであることを公にするしかないのだ。秘密が秘密でなくなればいい。
 その代償として、自分はお見合いシステムに組み込まれる。

 ――それだけは、嫌。

 両手を組み合わせて握り締める橙子は、顔を伏せて唇を引き結ぶ。
 発情期を迎えたオメガは婚姻可能年齢である十八歳になると、アルファとの見合いを強制される。実際に結婚するのは高校卒業後になるが、大学進学の可否は相手側のアルファ次第である。アルファが「家庭に入れ」と言えば従わざるをえない。

 人権啓発活動を推進する現在では、既婚者のオメガが大学へ通う姿も増えてきた。しかし妊娠・出産のために休学することも多く、彼らの進学率はそれほど高くない。
 そして結婚すればオメガ側による離婚は認められず、アルファ性の子とオメガ性の子を、最低一人ずつ産むことを義務づけられるのだ。

 ただしノルマさえ達成できれば一方的な離婚も可能になる。自由を約束され、進学や就職も己の意志で選択できる。離婚後は生活支援の給付金もかなりの額が支給され、ベータとの再婚も認められる。
 この、「最低一人はアルファとオメガを産む」という義務を、オメガたちは〝おつとめ〟と揶揄していた。おつとめさえ果たせばアルファと離婚して自由の身になれると。

 ――でもアルファとオメガの夫婦では、ほとんどアルファしか生まれない。何人も子どもを産んだのにオメガが生まれず、離婚できない人は多い。

 自分は今、二十五歳。野良オメガであることがバレたら、即刻アルファとの見合いを強制される。
 とはいえ運良く、オメガに理解のある優しいアルファと結婚できたら、それはそれで幸せだろう。離婚など考えず、伴侶と二人で家庭を育んでいきたいと考えるはず。
 だが最悪の相手に選ばれたら、アルファとオメガの子を産むまで耐えるしかない。
 オメガ側に相手を選ぶことなどできないのだ。お見合いシステムにおいて、結婚を了承する権利があるのはアルファだけだから。
 しかしそれは、もはや子を産むだけの人形ではないか……

 ――何が人権啓発よ。お見合いシステムがある以上、オメガにとって本当の自由なんてないわ……

 誉から逃げ出したい。だが国に管理されたくはない。もう八方塞がりだ。
 どうしてこうなったのかと思い返せば、やはり道端でいきなり発情したのが原因だろう。今まであんなハプニングなど起きなかったのに。
 そしてふと思う。なぜあのとき誉だけがヒート化しなかったのだろう、と。





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