第五話


 車でしばらく走っていると、自宅とは反対の方角へ向かっていることに橙子は気づいた。

「日下部さん。道を間違えていませんか?」
「いえ。合っていますよ」
「えっと、でも、私の家はこっちじゃないんですが……」

 すると日下部が、ああ、と運転しながら頷く。

「水谷さんの新しい家へお連れするんですよ」
「えぇっ! そっ、なっ、聞いてませんよ……!」
「はい。今、言いました」

 ルームミラーに映る日下部は実にいい笑顔だった。驚く方がおかしいのではないかと錯覚するほど。
 しかしすぐに橙子は我に返る。

「困ります。急に言われても……」
「水谷さんが倒れたことを誉様はひどく心配して、家政婦が通いやすいエリアにある、セキュリティがしっかりした家を購入したんです。もう買ってしまいましたから」

 さらりと告げられた言葉に絶句する。家ってそんなに簡単に買えるものなのかと、激しく動揺した。それに。

「あの、家政婦さんって、どういうことですか?」
「水谷さんは栄養不足が見られたので、バランスのいい食事をきちんと取れるよう、栄養士の資格を持つ家政婦が食事の用意をすることになりました」

 節約のために自炊をしてきた橙子にとって、他人を使ってご飯の準備をさせることに違和感を抱く。そこまでしてもらわなくてもと思うのだが、八神家のような資産家だとそれがスタンダードなのだろうか。
 そこでふと思う。

「もしかして、私が初めて運ばれた家に行くのですか?」
「いえ、違います。そういえば説明していませんでしたね。あそこは八神家の離れなのです。母屋には誉様のご両親の八神当主夫妻とお子様方が暮らしておりまして、彼らはアルファですから水谷さんをお連れすることは難しいですね」

 もし橙子が発情したら、フェロモンの香りでオメガだと露呈してしまう。
 橙子が誉と遭遇した夜、八神家には誉以外の家族は誰もいなかったそうだ。八神当主は夫人を連れて海外へ、他の家族は留守にしていた。
 八神家の使用人は全員がベータのため、誉以外のアルファが不在ならば橙子の発情期が治まらなくても被害はない、と判断したため運び込んだという。
 だが現在は当主夫妻が在宅していた。
 話を聞く橙子が、あんな広くて豪華な部屋が離れだったなんて、と感心していたら日下部が言葉を続ける。

「あと今から向かう家ですが、高級住宅地なのでアルファの人口がかなり多いです。でも心配しないでください。万が一、水谷さんのフェロモンが漏れたとしても、ヒート化したアルファが敷地内に入ってくることはありませんから」

 我を忘れたアルファが橙子の元へ殺到するだろうが、入り口や外壁は簡単に乗り越えられないよう堅牢な造りになっており、セキュリティシステムも万全だと語る。
 橙子はだんだんと困惑が大きくなる。新しい家を用意したのも家政婦を派遣するのも、すべて自分を守るためだと察せられるから。
 さすがにこの待遇は良すぎるのではないか。

「それは、八神さんが、そう指示されたんですか……?」
「もちろんですよ。――ああ、誉様がお苦手なようなので、一つアドバイスを」
「え」
「あの方は尊大で独善的ではありますが、決して話が通じない方ではありません。こうして欲しいとの希望があれば訴えてみるべきです。きちんと話を聞いてくれますよ」

 バックミラーに映る日下部の表情には、誉への尊敬を感じられた。反射的に橙子は視線を逸らした。
 誉の様子から自分に対する嫌悪を感じているのに、そう簡単には信じられない。
 再び息苦しさを感じて俯いていると、優しげな声が掛けられる。

「そういうところは、やはり柚香ゆずか様と同じですね」

 ……ゆずかって、誰? 橙子が顔を上げるとミラー越しに日下部と目が合った。

「柚香様は誉様の末の妹君です。八神家で唯一、オメガ性として生まれてきたお嬢様ですよ。柚香様もオメガ特有の儚さを持つ方で……ご自分の意見をあまり主張することがない、大人しくて控えめな方でした」

 橙子が保護された離れの部屋も、もとは結婚して家を出た彼女が使っていたという。彼女がいつ実家へ遊びに来てもいいよう、誉が管理して常に整えているという。
 そういえば彼は以前、『この部屋の住人は滅多に帰ってこない』と言っていた。他家へ嫁いだ娘ならそう頻繁には帰ってこないのも頷ける。
 だがそこで、あれ? と疑問が浮かび上がった。

「離れって……、ご両親の当主夫妻とその子どもは母屋に暮らしているんですよね? オメガの子は離れで暮らしてたんですか?」

 すると鏡に映る日下部はほんの少し寂しそうな表情を見せた。

「……アルファの社会でも様々な家庭の事情があります。柚香様については、いずれ誉様が話されるでしょう」

 そこで日下部は口を閉ざした。橙子も特に知りたくはなかったため、追及はせずに口を閉ざす。
 誉にオメガの妹がいると、その妹を大切にしている印象を受けて少し動揺した。急に彼が自分の近い位置にいる人だと感じるようで。
 胸の奥で奇妙な感覚が疼く気がする。なぜだかドキドキした。

 ――でも、同じオメガの私のことは嫌いよね?

 ではオメガというバース性より、橙子自身が嫌いなのだろうか。……それはそれでモヤモヤする。いや、別に嫌われている方がいいのだけれど。
 ふう、と橙子は日下部に気づかれない程度の溜め息を漏らす。
 なんだか誉と会ってから、理由の分からない感情に揺さぶられるときがあって怖い。不整脈だろうか。

 己の胸に手を添えて瞑想めいそうしていると、やがて車は高級住宅地の中へと入っていった。しばらくのあいだ緑豊かで美しい街並みを走っていけば、やがて大きな家の前で停車する。
 縦長のコンクリートと分厚いガラスを交互に並べた、重厚で背の高い外壁が敷地を隠すように取り囲む家だった。
 日下部がリモコンを操作した途端、巨大シャッターゲートが自動で開き、車ごと敷地内に入る。
 歩きの場合はゲートの脇にある大型門扉から入るという。スイッチボックスへ暗証番号を入力すると自動で開くらしい。
 車から降りると、二階建ての邸宅を植樹で外の視線からうまく隠していると感じた。
 日下部に案内されて長いアプローチを歩き、玄関ドアのロックを掌紋認証で解錠すれば、巨大な玄関ドアが左右に自動で開く。やっと玄関ホール、家の中に入ることができた。

「……広いですね」

 この部分だけで橙子の狭いアパートがすっぽり入ってしまう。エントランスでこの広さだと、家の中はどうなっているのか。
 怖じ気づく橙子を日下部がシューズインクロークへ導く。天井まである靴棚を示され、「ここが水谷さん専用ですから」と言われて絶句した。そんなに靴は持っていない。
 何もないガラガラの靴棚に脱いだ靴をしまい、日下部と一緒に奥へ向かった。
 やたらと横幅が広い、すみに螺旋階段がある廊下を進めば、観音開きの巨大ドアがある。それを開けると広大なリビングダイニングが視野に飛び込んできた。

「うわぁ……っ」

 床から天井まで木目の美しさが際立つ、大人数のホームパーティーが可能な空間だった。しかもリビングダイニングに面したガラス扉の向こうに広大な中庭があり、扉を解放しているためさらに広く見える。
 日下部にうながされてリビングへ進むと、二階まで吹き抜けの大空間はホテルのラウンジを思わせた。インテリアや家具なども、一目見て上等なものだと感じられる。

 ……もうなんて言ったらいいのだろう。
 世の中には高級ホテルのような家に住む人もいるのだと、上流階級は生活レベルが想像もできないほど高いのだと、初めて知った。
 八神家の離れの部屋も広くて豪華だったが、ここはそれ以上だ。個人の邸宅だなんて信じられない。
 ごく普通の一般家庭に生まれ育ち、実家は3LDKのマンションという橙子にとって、ここが住む家だと言われても実感が湧かなかった。

 だいたいなぜダイニングテーブルに八つも椅子があるのか。なぜ十人は座れそうな巨大ソファを置くのか。もしかして自分以外に同居人がたくさんいるのだろうか。
 しかもこれらを置いても余りある広さのフロアだなんて、敷地全体の面積が何平方メートルあるのか想像もできない。
 あまりの事態に呆然としていたら、澄んだ鐘の音がフロアに響き渡って正気に戻る。
 これはチャイムの音だと教えてもらい、日下部が玄関まで迎えにいく。
 しばらくすると弁護士の浅倉と、初めて会う中年女性を連れてきた。日下部が女性を紹介してくれる。

「水谷さん、家政婦の西村さんです。もともとは八神家の母屋で働く家政婦さんなのですが、今後は彼女が食事全般を用意してくれます」
「あ、よろしくお願いします……」

 西村は気のいいおばちゃんといった印象で、日中にこの家を訪れ、その日の夕食や作り置き料理を用意し、家の掃除をするのが仕事だった。
 橙子の味の好みから食べられないもの、アレルギーの有無、食事量などを聞き出し、夜遅く疲れて帰宅しても食べやすいよう、低カロリーで塩分控えめの料理を作るのだという。
 日下部いわく、西村の料理は煮物が絶品で、野菜をたっぷりと使った優しい味つけらしい。それを聞いて現金にも楽しみになった。

 外食等で食事の用意をキャンセルするときや、食べたいもののリクエストは、メッセージで教えてくれれば対応可能だという。西村は通いであるがこの家の専属使用人でもあるので、食事以外でも好きなように使って欲しいと、随時相談に乗るという。
 使用人という職というかシステムを使ったことがない橙子にとって、至れり尽くせりなサービスに感動してしまう。まるでお母さんができたようで。
 少しためらったが、「話し相手とかもしてくださいますか?」と聞いてみれば、笑顔で快諾してくれた。橙子は年上の同性に甘えるきらいがあるのだ。
 西村との面談を終えて、さっそく彼女が夕飯用の買い出しに向かうと、今度は浅倉が話しかけてくる。

「では水谷さん、あなたが住んでいた部屋を解約して荷物をこちらへ運び込みますので、サインをお願いします」

 賃貸契約の解約や転居届の提出など、代理人が行う場合の委任状を差し出された。
 ……今は有休消化中なのでそれぐらい自分でやりますと告げたのだが、浅倉と日下部に「ゆっくりと休んでいてください」と笑顔で告げられて引き下がった。ああ、実家に帰りたくなってきた……
 とはいえ弱みを握られている状況では逆らえないのだ。橙子は心の中で泣きながらサインをする。これでこの家しか帰る場所がなくなったのは悲しい。

 浅倉も辞去した後、日下部が家の中の案内をしてくれた。一階を中庭も含めてグルグルと歩いてから、橙子を連れて二階への螺旋階段を上がる。
 そこは一階同様、贅を尽くした空間だった。
 主寝室はキングサイズベッドを置いてもまだまだ余裕がある広大な部屋で、一階と同様のゆったりとしたリビングに、ウォークインクローゼットが二箇所、洗面ボウルが二つもある広い脱衣所と、中庭を見下ろせる大きなバスルームまである。

「……すごいですね。本当に私が暮らしてもいいんでしょうか」
「もちろんです。水谷さんは主寝室を一階と二階のどちらにしますか? 個人的には二階の方がプライバシーをたもてますね」

 一階は家政婦の西村だけでなく、八神家の人間が出入りすることもあるという。だがそういった者たちは決して二階へ上がらないと教えてくれた。
 なんとなく橙子は、この家で下宿をしているイメージを抱いた。

「えっと、どちらでもいいですが、では二階でお願いします」
「かしこまりました。では一階は誉様のエリアにするので、階下のバスルームやゲストルームを使いたい場合は誉様に断ってくださいね」
「……は?」

 今なんつった? 橙子が目を丸くして日下部を見上げるが、笑顔の彼はスタスタと一階へ下りていくではないか。

「ちょっ、ちょっと待ってください! 八神さんもこの家に暮らすんですかっ!?」
「もちろんです。水谷さんがまた倒れられたら困りますからね」

 グッと言葉を詰まらせた橙子だったが、もちろんすぐさま反論した。

「あんなことは二度と起こしません! もう元気になりましたし……!」
「誉様は過労の件以外でも、あなたが一人だけのときに発情期がくるのを案じているのですよ」
「それはっ、発情期抑制剤を欠かさず飲み続けていれば……」

 すると日下部が階段の途中でクルリと振り返る。

「新型抑制剤を欠かさず飲み続けていながら発情した。そうですよね?」

 あいかわらず笑みを消さない余裕のある態度だったが、話す内容は容赦がない。
 そして橙子は反論できなかった。本当になぜあそこでいきなり発情期が訪れたのか、さっぱり分からないのだ。
 それでも誉と同居だなんて受け入れられない。

「ではアルファが周囲にいない下町でシェアハウスを探します。それなら一人きりではないし、発情しても倒れてもルームメイトに助けを求めることができますから」
「そこ、野良オメガだと言って入居するんですか?」

 ウッ、と橙子が言葉を飲み込んだ。
 日下部は笑って階段を下りつつ、背を向けたまま言葉をつなげた。

「誉様との接触がお苦手ならば、二階へ許可なく上がってくるなと言えばいいんですよ」
「……え」

 そんなことは可能なのか。ここは誉が購入した家なのに。
 階段の途中で固まっていると、一階に降りた日下部は振り向いて苦笑を浮かべた。

「申し上げましたよね、あの方は話が通じない方ではないと。望みがあればハッキリ伝えるべきです。人間は言葉にして言わなくては、意思疎通が難しい生き物ですからね」

 それは誉様でなくても同様です、と告げる日下部の言葉には、「察してちゃんになるな」とか、「もっと自己主張をしろ」との非難の意味が含まれているように感じた。
 彼は話を続ける。

「……柚香様も八神家のご令嬢でありながら我が儘を言うこともなく、本音を押し殺して不満を溜め込み、大人になってから爆発して自ら命を絶とうとしました」
「え!」
「未遂に終わりましたが、いまだに柚香様のお心の傷は癒えておりません。だから水谷さんには同じてつを踏んで欲しくないと、私は思っております」

 なんて答えればいいか分からずに日下部を凝視する橙子へ、彼はニコリと微笑む。

「お茶を入れますのでリビングでお待ちください。浅倉先生から美味しいお菓子をいただいたんですよ」

 そう言いながらキッチンへ向かう大きな背を、橙子は呆然と見つめるしかなかった。





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