第六話


 秋晴れの清々しさを感じる十月中旬の夕方、駅前にある買い物エリアの散策から帰ってきた橙子は、慣れた手順で大型門扉を開けると広い敷地内へ足を踏み入れた。
 今日は平日で、本来なら誉の会社で働いている時刻だ。しかし橙子が倒れたことで十一月からの出勤となったため、約一ヶ月以上もの休暇でこの家にも住み慣れ、とても居心地がいい。
 フンフンと鼻歌を歌いながら玄関に入ると、玄関ホールの隅に踵の高いヒールがそろえて置かれており、首をひねる。
 お客さんだろうか。
 今までこの家を訪れる女性は家政婦の西村だけだったので、深紅の靴底レッドソールを見ると違和感を抱く。この超有名ブランドの靴を履きこなすお客とは誰だろう、と。
 不思議に思いながらながらシューズインクロークに移動して靴を脱いだとき、誉の靴がずらりと収納されているスペースを見て、彼も帰っているのではと思いついた。なんとなく靴の数が一足、多いような気がするから。
 もしかして誉が連れてきたお客かもしれない。

 ――こんな時間に珍しい。八神さんに会うのも久しぶりだわ。

 なんとなく名状めいじょうしがたい複雑な感情が生まれる。
 現在、誉と同居を始めてから一ヶ月以上が経過していたが、今日まで彼と顔を合わせたのは二回きりである。
 一回目は同居初日に今後の説明を受けたとき。
 二回目は八神グループの研究所に連れていかれたとき。
 しかも誉は研究所員に橙子を預けると、『あとで日下部が迎えにくる』と言い残して、さっさと会社へ行ってしまった。
 ……愛人かセフレにすると言っていた話は、彼の中でどうなっているのか。藪蛇になりたくないので指摘はしないけど。

 ここまですれ違うのは家が広すぎるのと、一階と二階が完全に分離しているせいだろう。
 一階リビングの吹き抜け部分は二階の居住スペースと分離されているため、橙子が二階から降りなければ人の気配は感じない。
 同居当初は誉が部屋に来るのではないかとビクビクしていたけれど、二階に上がらないで欲しいと勇気を出して伝えたせいか、本当に彼が階上へ足を踏み入れることはなかった。
 そして平日は誉とまったく会わない。
 彼は午前九時すぎに家を出ることが多いものの、帰宅するのは必ず深夜で日付が変わった時刻になる。そして休みの日も不在の場合が多い。
 そのため誉との連絡はメッセージに頼っている。彼と話すことに抵抗を覚える橙子にとって、メッセージのやり取りで済むのはとても助かっている。

 この一ヶ月間、衣食住の〝食〟と〝住〟を確保されて、のんびりと過ごしつつ学生時代の友人と会ったり、映画を観にいったり、ランニングを始めてみたりと、自由気ままな時間を愉しんでいたら精神の不調はすっかり良くなった。
 一度以前の勤務先に退職が早くなった詫びをしに行ったが、パワハラ上司は他部署に異動となっていたため、特に心身の負荷を覚えることもなく。
 西村の美味しい料理をきちんと食べているのもあって、胸だけ大きくてやせ気味だったアンバランスな肢体に、ほどよく肉がついて健康的な体を取り戻せた。
 毎日がとても充実している。

 だからときどき、誉の存在を忘れてしまうときがあった。なのでこんな早い時刻に彼が帰宅したことが不思議だ。
 何かあったのかなと思いながら廊下を進むと、リビングの観音扉がそっと開いて西村が素早く出てくる。橙子はパッと表情を明るくした。

「ただいま帰りました!」
「お帰りなさい。水谷さんの帰宅に気づいて良かったわ。あのね、しばらくのあいだ二階に隠れていて」
「……どうかしたんですか?」

 声を潜めてうろたえる西村の様子に橙子が眉根を寄せると、彼女は背後の扉を気にしながら橙子を螺旋階段へうながす。

「それがね、誉様の妹様がいらっしゃっているのよ」
「妹って……、たしか柚香さんですか?」

 自分と同じオメガ性の妹の話は、この家に来たとき日下部から聞いた。
 ビックリしてリビングへ続く大扉を見つめると、西村も驚いた声を出した。

「あら、柚香様を知ってるの? でも今お見えになっているのは柚香様じゃないのよ。柚香様のお姉様の理々子りりこ様よ」
「はあ」

 妹が二人いたのかと納得したとき、大扉が開いて背の高い女性が現れた。

「西村さん、新しいお茶を……あらっ?」

 自分と同年代らしき女性をひと目見た瞬間、橙子は心の中で「この人、アルファだ」とハッキリ感じ取った。
 ミルクティカラーのふわふわボブヘアが可愛く、目鼻立ちの整った文句なしの美人だが、触れたら皮膚が切れそうな威圧を感じる。きつめの眼差しに意志の強そうな雰囲気もアルファ特有のものだ。

「お茶でございますね。かしこまりました。すぐにお持ちしますから理々子様はお戻りくださいませ」

 西村はギクリと体を震わせ、すかさず自分の後ろへ橙子を隠そうとする。が、西村の方が橙子より背が小さいので隠しきれていない。

「……その女、誰? 兄さんのお客?」

 理々子が美しい目を細めてギロリと睨みつけてくるため、橙子は思わず一歩、背後に下がった。

「はい。そうでございますよ。二階でお待ちいただこうかと思いまして」

 その途端、目を吊り上げた理々子がズカズカと歩み寄り、西村がかばう橙子の腕をつかむと、あっという間に背中側へひねり上げた。

「あだだだだっ!」
「理々子様! 何なさるんですか!」
「うるさいわね。この家には兄さんの女が住んでるんでしょ。二階に上げるってことはこの女じゃないの?」

 予想だけで暴力をふるうって、横暴な! 人違いだったらどうすんのよ! と橙子が痛みに呻きながら心の中で抗議したとき、西村の制止などものともせず理々子が尊大な口調で命じてくる。

「ちょっとあんた、金目当てか知らないけど兄さんと別れて出ていきなさい。八神の後継者に取り入ろうだなんて、ベータの女が生意気なのよ!」

 ――ちょっ、それはないでしょ! こっちは離れたくても離れられない被害者なのに! そういうことはあなたのお兄さんに言って! というかやっぱりアルファって自分勝手だわ!

 とのことを心の中で叫びつつ理々子への恐怖で怯えていたとき、大扉が勢いよく開いて誉が飛び出てきた。

「何やってんだ理々子!」

 素早く拘束される腕を引き離してくれた。その際、ふらつく橙子の体を誉が抱き留める。
 身を竦ませる橙子だったが、ジャケットを脱いだ彼の体からフレグランスを吸い込んだ途端、なぜか力が抜けて彼に身を任せてしまった。
 男性の力強い腕に支えられる羞恥で顔面が熱い。誉に抱き締められているというのに抵抗する気にもならない。
 すぐそばで繰り広げられる兄妹喧嘩を聞きながら、胸をドキドキさせてしまう。

「兄さんこそ何考えてんのよ! いつまでも独身で八神グループに帰ってこないうえ、そんなベータ女を囲うだなんて! 誰が八神を継ぐのよ!」
「何度言ったら分かるんだ! 跡継ぎは雛子ひなこがいるだろう!」
「雛子姉さんじゃ次の世代が生まれないじゃない! 兄さんがオメガと結婚しないと!」
「それは何度も言ったがおまえが口出しすることじゃない! そんなにオメガと結婚して欲しいなら、おまえが見合いすればいいだろ!」
「なんでそうなるのよ! オメガとのお見合いなんて絶対に嫌よ!」
「だったら俺にそれを強制するな!」

 ……あの、すぐ近くで怒鳴り合うのはやめて欲しいんですけど。耳が痛いんですけど。
 橙子は胸の高鳴りが消えてしまうほどの激しい罵り合いに、だんだんと冷静になってきた。このままでは兄妹喧嘩が終わりそうにないと思い、誉の背中に腕を回して広い背をポンポンと軽く叩く。
 ハッとした誉が自身の腕の中にいる橙子を見下ろした。
 間近で誉の美しい顔を上目遣いで見上げる形になった橙子は、やや頬を染めながら視線を逸らして口を開く。

「あの、できれば離していただきたいのですが……」

 このとき突然、誉が橙子の顎を指でつかんできた。クッと持ち上げられて逸らしていた眼差しが再び彼に向けられる。
 心臓が音を立てて跳ね上がったような気分だった。誉の瞳に見たことがない艶めかしい色を感じ取って。
 彼は橙子を見つめながら妹へ話を続ける。

「理々子、俺は八神グループに戻るつもりはない。家のことは親父にも話してあるし、俺はこの子と結婚する」
「なんですってえぇっ!」

 理々子の絶叫と同時に橙子もおかしな悲鳴を上げそうになったが、その直前に誉の美貌が落ちてきた。
 逃げる隙もなく唇を塞がれる。

「んふぅっ」

 上を向けられたことで開いていた唇の隙間から、肉厚の舌がねじ込まれた。唾液をまとったぬるついた舌が、口内を隅々までまさぐってくる。熱くて柔らかい粘膜の感触に橙子の目が見開いた。

 ――キスしてる。私が、八神さんと。

 ただ、それはキスという可愛らしい愛情表現ではなく、唇を蹂躙するだけの行為のようで。
 おまけに二人とも目を開いているため、ムードもへったくれもない。
 橙子は舌の根元まですり合う感触を、唾液が絡み合う粘ついた音を、硬直したまま受け入れていた。瞼を下ろすこともなく、間近で誉の綺麗な瞳の色を見つめながら。
 今まで怖れ、怯え、苦手としている男との口づけだというのに、なぜか嫌悪感は抱かなかった。ただただ驚きすぎて思考が停止しているのだ。誉が自分にキスしていることと、その感触が心地よくて溺れそうになっていることに。
 こくり、と口内にあふれた体液を飲み干せば、意味が分からないほど甘く感じた。

 その間、視界の端で何事かをわめいていた理々子は、いつのまにか出ていったらしく姿がない。西村もリビングへ逃げたのか消えている。
 ようやく唇が離れると、赤くなった唇同士を透明な糸がつないでいた。その淫らな糸がプツリと切れるまで見つめていた橙子は、じっと見下ろしてくる誉の端整な顔を見上げる。
 そのまま数秒ほど、互いに濡れた唇を拭くこともなく見つめ合っていた。そして――

「ぐ、ぇ……」

 橙子の瞳からぶわわっと涙が噴き上げ、誉の大きな体がぎくりと揺れる。

「うぇ、なっ、ど、して……ぶえぇぇ――……」

 若い娘の泣き声とは思えないおかしな音が響いた。
 おまけに、女が男を落とすための守ってあげたくなるような涙ではなく、ぼたぼたと大粒の涙を落として絶望の表情を見せるものだから、誉は橙子を抱き締めたまま硬直してしまう。

「ぐえぇ……どっ、して、ひぅっ、……きす、はっ、はじめて、だった、のにぃ……」
「……え?」
「ぶべぇぇ――……」

 ボロボロと涙を零しながらしゃくりあげる橙子に、固まったまま動けない誉がいつまでも立ち竦んでいると、大扉が小さく開いて西村が遠慮がちに顔を出した。

「誉様、温かいお飲み物でもご用意しますから、こちらでお話されませんか?」
「あ、ああ……」

 いつも泰然としている誉が動揺しまくっていることを隠すことなく、グスグスと泣き続ける橙子の腰をためらいながら抱き寄せてリビングへうながした。
 ソファに腰を下ろした橙子は、西村から受け取ったタオルに顔を埋めてビービー泣き続ける。その間、誉は腕を組み目を閉じて虚無の世界に逃避していた。気を遣ったのか西村の姿はリビングにない。
 だいぶ時間が経過してようやく涙が枯れると、橙子は鼻をすすりながら冷めた甘めのミルクティーに口をつけた。

 ――はあ、ちょっと、落ち着いた……

 この家に来てから精神面はすこぶる好調だったものの、どうも誉に対する怯えや遠慮、この状況にむりやり押し込まれた恨みなどは残っていたらしい。それが涙となって全部吐き出されたようで、やけに心がさっぱりとした。
 とはいえ気持ちが落ち着けば、子どもみたいに泣き続けたことに羞恥も覚える。あれは、「あんたのせいで泣いてるんだからね!」と、彼に八つ当たりしたのだと分かっているから。

 ――いい歳の大人が情けない。でもいきなりファーストキスを奪われたら泣けてくる……

 心の中で言い訳を漏らしながら誉を盗み見れば、彼はいまだに現実逃避をしていた。女に泣かれるのは苦手なのか、形のいい眉がギュッと寄せられている。もしかしたら怒っているのかもしれない。
 ……とりあえず謝っておくべきか。

「すみません。泣きわめいて……」
「……いや。俺の方こそすまない」

 唯我独尊のアルファ様が素直に謝ったことで、橙子は脳内で「おおっ」と歓声を上げる。
 キスをされたことさえ吹っ飛ぶほどの衝撃だ。「そうよ、全部このアルファが悪いんだ!」との開き直りの心境にさえなる。
 泣くな、とでも一喝されたらビビって萎縮していただろうが、いつもの我田引水な様を感じなかったので強気が生まれた。

「あの、さっき妹さんと話してて……その、私と結婚って、どういうことですか?」

 理々子は橙子をベータ女だと罵ってきた。つまり正体を知らない。もっとも橙子が野良オメガであることは、ここに出入りをする者しか知らされていないと聞いたが。
 そこで誉が目を開けて橙子を見遣る。と、同時にウッと仰け反って露骨に顔を逸らした。彼女の目が真っ赤に充血して罪悪感を抱いたらしい。

「……すまない。あれは、売り言葉に買い言葉だった」
「そんなの当り前です」

 あなたと結婚するわけないじゃない、との意味を込めて言い返す。
 誉はぬるくなったコーヒーに手を伸ばして一口飲むと、「今後、理々子だけじゃなく、他の妹も乗り込んでくるかもしれないから話しておく」と前置きして語り出した。





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