第二十二話


 時間は少し戻り、十二月二十五日の夜。
 新大阪駅から新幹線に乗った誉は、午後十時近くなった頃、体が跳ね上がりそうなほどの熱量を感じて息を呑んだ。

 ――なんだ……?

 体温が上昇し、雄の欲望が膨らんで弾けそうな気分になる。身に覚えがあるこの感覚はヒート化する前兆だ。慌てて手のひらで口と鼻を覆うが、周囲にオメガフェロモンは感じなかった。
 そしていつまでたっても自身のヒート化は起きない。それなのにオメガを求める興奮は止まらないのだ。
 そっと顔から手を離した誉は、自分の体内で渦巻く劣情に意識を向ける。たしかに体はオメガの発情期に反応していた。

 ――もしかして、番に反応しているのか……?

 橙子と見えない糸で肉体がつながっているため、彼女が近くにいると感情の揺らぎがなんとなく分かるようになった。例えば眠るとき、抱き枕にしている橙子が緊張と高揚で、なかなか寝付くことができないでいると。
 申し訳なく思いながらも彼女を抱き締めていたら、かすかにオメガフェロモンを感じるようになった。ヒート化するほどではないが、アルファの性欲を刺激する危険な甘い香りが立ち昇る。
 おかげで下半身が反応し、それに気づいた橙子がよけいに眠れなくなるという状況になっていた。

 もう抱いてしまいたいと何度も思ったが、うなじの傷が完治していないうちに無理強いしてはいけないと、必死に己をいさめていた。
 そんな夜を過ごしているため理屈抜きで分かるのだ。橙子が発情しているから番の自分も反応していると。

 ――どういうことだ? もう発情期は来ないはずだろ。

 デッキに移動して橙子へ電話をかけてみるが応答はない。まだ残業中かもしれないので仕方なく席に戻るものの、なぜか焦燥感が内臓を焼くようで落ち着かなかった。理由は分からないが、橙子がひどく泣いている気がして。
 じわじわと心を侵食する嫌な予感に苛立っていると、スマートフォンが着信を知らせた。日下部からの電話に再びデッキへ戻る。

「――どうした?」
『お疲れ様です、実は先ほど、篠田家の運転手が理々子様に怪我を負わせたと謝罪しに来ました』
「はあ?」

 橙子のことを考えていたため、妹の名前を出されて面食らった。篠田家の名が出てくる意味も分からない。

「どういうことだ?」
『運転手の話ですと、理々子様がヒート化して実佳子様を襲ったようです。それでやむなく取り押さえた際、乱暴に扱ってしまったと』
「ヒート化って、実佳子さんのフェロモンにやられたのか?」
『……それが、水谷さんのフェロモンが原因だそうです』

 絶句したと同時に、先ほど感じた橙子の発情期を思い出した。「それを早く言え!」と声を荒らげてしまい、通りかかった若いサラリーマンがビクつきながら客室へ入っていく。

「いったい何があったんだ! 橙子は無事なのか!?」
『詳しい事情は分かりません。ただ水谷さんは理々子様から逃げたようで、西村さんに確認したところ帰宅していないとのことです』

 ヒュッと自分の喉からおかしな音が鳴った。惚れた女の安否が分からないというだけで、心臓を握り潰されたかのような激痛がほとばしる。

「……探したのか?」
『はい。ですが、理々子様が興奮しているため詳しい話を聞けず、誉様の自宅周辺ぐらいですが……』

 事情を知っている理々子は、ときどき橙子がオメガであることを叫んで錯乱しており、手が付けられない状態だという。そのため在宅していた父親――鷹史たかふみが実佳子と篠田の運転手から事情を聞いている最中だ。

「……分かった、俺も本邸へ向かう。東京駅に車を回してくれ。十時半に到着予定だ」
『かしこまりました』

 通話を切ると誉はすぐに橙子へコールした。だがやはり呼び出し音は鳴るものの留守番電話に転送されてしまう。
 静かになったスマートフォンを握り締めながら唸り声を漏らした。

 橙子がオメガであると露呈した件は、もう仕方がない。ただ、本人は今どのような状況なのか。
 彼女は自分と番関係になってから、緊急用の抑制剤を所持していないはず。女の理々子からは逃げ出せたとしても、男のアルファをヒート化させてしまったら……
 それを考えた途端、ぐうっと胃から嘔吐おうと感がせり上がってきた。胸元を押さえて深呼吸するが吐き気と不安と焦りで混乱が治まらない。
 だがこのとき突然、あることを思い出した。慌ててスマートフォンの位置情報追跡アプリを立ち上げる。

 橙子に渡した三毛猫のしっぽキーホルダーは、彼女が気に入ったのもあって鞄につけられたままだ。持ち主も渡した自分も、あれがGPS発信装置であることを完全に忘れていた。
 小さく震える指先で橙子の位置情報を表示させると、なんと警察署になっている。
 ギョッとしたのと同時に、彼女は無事ではないかとの安堵が生じた。もしアルファに襲われていたら、真っ先に病院へ搬送されるだろう。怪我はしていないようだ。
 そして同時に、彼女が野良オメガだと世間に露呈したことも察せられた。

 ――まずい。このままだとオメガセンターに橙子を奪われる。

 舌打ちをしつつ急いで橙子の現状を日下部にメッセージで送る。ついでに弁護士の浅倉を、緊急事態につきなんとか呼び出せないかと伝えた。
 そこから東京駅に着くまで誉は苛立ちを抑えることができず、彼の前後に座っていたサラリーマンは、アルファの怒りの気配に怯えて座席を移動してしまった。
 空いているグリーン車だったのは不幸中の幸いである。

 午後十時三十分。定刻通り東京駅に到着した誉は、足早に車が待機している場所へ向かう。八神家のリムジンが見えたとき、運転席から日下部が降りて後部座席のドアを開けた。
 中に乗り込むと運転席との間の仕切りは下げられており、日下部はすぐさま発進して報告する。

「浅倉先生と連絡が取れました。事情をお伝えしたらすぐに対応してくださるそうで、八神家から迎えの者を出しています。あと、理々子様が落ち着いてきたので旦那様が話を聞いたんですが……だいぶ詰んでいる状況ですね」

 理々子の話によると、実佳子に頼まれて橙子を呼び出したことが発端だという。
 実佳子が橙子へ発情期誘発剤を打って強制的に発情させ、理々子がヒート化して橙子を襲ってしまったと。だが彼女が逃げ出したので、獲物を失った理々子は錯乱して実佳子に襲いかかり、運転手が止めようとして怪我を負った、という流れだった。

「……なんで実佳子さんは橙子に誘発剤を使ったんだ」
「それは聞いていませんが……まあ、水谷さんをアルファに襲わせようとしたんでしょうね」

 このとき誉は怒りを抑えようと、己の二の腕を力一杯わしづかみにした。でなければ八つ当たりで日下部を殴り倒しそうだった。
 その気配を感じ取ったのか、日下部の顔が盛大に引き攣る。

「……私を殴らないでくださいよ。それで、水谷さんが警察署にいると分かったため旦那様が問い合わせたんです。でもオメガセンターの許可がないと答えられないって断られたそうですよ。なんでも二親等以内の家族じゃないと、オメガについて話せない決まりとのことです」

 つまり橙子の婚約者である誉も赤の他人なので、今後は関与させないと予想できた。
 歯を食い縛った誉がうなだれるように頭を伏せたため、日下部がルームミラーを覗いてもその表情は分からない。そのため彼の瞳に宿った殺意に気づかなかった。

 八神本邸に到着して客間へ向かうと、そこには鷹史と妻の晶子、顔色の悪い理々子に、実佳子と運転手の姿があった。
 誉の姿を認めた実佳子がパッと表情を明るくしてソファから立ち上がる。
 無表情の誉が彼女へ真っすぐに突き進み、勢いよく細い首を握り込んだ。

「同じオメガのおまえが橙子をはめたのか……ッ!」
「誉様! いけません!」

 すぐさま使用人たちが誉を引き剥がしたため、悲鳴を上げることもできず目を剥いていた実佳子は床にへたり込んだ。
 彼女は誉の暴挙に呆然としていたが、やがて涙を零すと三人の男に抑え込まれている誉へ涙声で訴える。

「だって、私も誉くんのことが好きなのに……、同じオメガなのにどうしてあの子が……オメガなら私でいいじゃない!」
「てめぇ……っ!」

 アルファの男が本気で相手を害するときの底力が出たのか、誉が再びつかみかかろうと腕を伸ばすと、三人の男たちが引きずられる。

「誉様っ! この方は篠田家のご令嬢ですよ!」
「だからなんだ! ただのクソ女だろうがっ! オメガに誘発剤を打つ意味を分かっててやったんだぞ!」

 男たちの怒号が響き、常に静謐で満たされている客間が騒然とする。
 このとき扉が開いて浅倉が入ってきた。彼は殺気立つ誉に眉を顰めながらも、その前に立って怒り狂う目を静かに射貫く。

「誉さん、ご決断ください」
「ああッ!?」
「オメガだと露呈した水谷さんを助けるか、それとも見捨てるか――」
「助けるに決まってんだろ! あの子は俺の女だ!」

 その途端、騒がしい客間の空気がぴたりと静かになった。特に誉をよく知る人々は、ポカンと呆けて彼を見つめている。
 彼らにとって誉とは、良くも悪くも感情の揺らぎが薄く、常にクールでつかみどころのない人間だった。これほど一人の人間に執着したのも、これほど激昂したのも、家族でさえ見るのは初めてになる。
 だが誉の方は頭に血が昇っているので、周囲の視線などまったく感じていない。
 浅倉はニコリといい笑顔を見せた。

「それを聞いて安心しました。――では話し合いを始めましょう。何せ時間がない。急ぎますよ」

 橙子を救う機会は少ないと言われ、さすがに誉も冷静さを取り戻した。全身から力を抜くと、彼を取り押さえていた使用人たちも離れてホッと息を吐いた。
 そこで鷹史が立ち上がり、床で震えたまま動けない実佳子へ近づいて相手と目線を合わせる。
 彼のいつもと変わらない冷静な表情に、実佳子もホッと息を吐いた。

「おじさま……」
「すまないが出ていってくれ」
「えっ」
「篠田家へは明日、正式に抗議する。君とはもう二度と会うこともないだろうが、新しい嫁ぎ先で幸せに暮らしてくれ」

 八神家当主から絶縁を言い渡されたことに、数秒たってようやく理解した実佳子は顔面蒼白になった。
 鷹史はその様子など気にも留めず、「誰か! このお嬢さんを叩き出してくれ!」と使用人たちへ言い放った。
 誉はこのとき視野の隅に入った理々子の姿を認め、ギロリと妹を睨みつける。

「おまえも消えろ。しばらく顔も見たくない」

 本気で嫌悪を感じさせる、生まれて初めて見る兄の表情に理々子も蒼ざめた。今まで姉妹が何をしでかしても、妹たちに甘い兄は溜め息をつきながらも許してくれたのに。
 これほどの悪感情を初めて向けられ、体の震えが止まらない理々子は動くこともできない。
 そこで鷹史は、誉がこの調子では話が進まないと感じ取り、実佳子と一緒に理々子も退室させた。

 実佳子がうながされて部屋から出るとき、振り向いて誉に視線を向けるが、彼は一顧だにしないどころか彼女の存在をすでに忘れていた。
 空気扱いされた実佳子は泣きながら退室するしかなかった。
 ようやく部外者が消えたので、鷹史は浅倉と誉をソファに座らせるとお茶を出させて大きな溜め息を吐き出す。

「おまえ、なんであの子のバース性を偽っていたんだ。せっかくのオメガなのに……」
「そんなこと今はいいだろ。――浅倉先生、橙子を助けるにはどうしたらいいんですか」

 父親の嘆きを無視して弁護士へ身を乗り出すと、浅倉はΩ新法の法令集をめくりながら口を開いた。

「誉さんが言う〝助ける〟とは、水谷さんとアルファのお見合いを阻止することですね。彼女がオメガである事実を隠すことは、もう無理でしょうから」

 頷いた誉へ、浅倉が法令集を開いてテーブルに置く。そのページは婚姻に関する条文が記載されている。

「オメガは基本的に本籍がある県でお見合いをします。東京に住んでいても地元に戻され、地元のアルファと結婚する決まりなんですね」

 数日中に橙子は広島県へ移送されるだろうと浅倉は語る。これはΩ新法によって定められており、誰にも阻止することはできない。

「なのでもう、水谷さんは死亡するか既婚者になるぐらいしか、お見合いを避ける方法はありません。今回は当然、後者を選びますので、誉さんには彼女と今すぐ結婚してもらいます。婚姻届さえ受理されれば、水谷さんは誉さんのまごうことなき配偶者。オメガセンターもアルファの夫から引き離すことはしないでしょう」

 これがベータとの結婚だと揉めに揉めますが、との言葉に全員が納得した表情で頷いた。

「そうか……、俺たちはお見合い結婚した夫婦と変わりはないんだ」
「はい。Ω新法とは、アルファとオメガをつがわせ、子孫を残すための法律ですからね。アルファと結婚したオメガを離婚させる理由にはなりません」

 Ω新法では、ベータと結婚している野良オメガが発見された場合、協議によって処遇を決めることが記されている。
 そのためオメガセンターは、野良オメガの夫婦へ多額の金銭を提示することによって離婚を求めていた。しかしそれが成立した事例は少ない。離婚すればアルファと再婚しなくてはいけないから、当たり前の話であるが。
 余談だが、野良オメガの配偶者が大金に目がくらみ、離婚を承知したもののオメガ本人は頷かず、泥沼の離婚調停が続くというケースも少なくなかった。

「そこでお二人の婚姻届を提出することになるのですが……オメガセンターは朝になったら、水谷さんの戸籍をベータからオメガに変更するでしょう。これをやられたら終わりです」

 オメガとの結婚のみ、婚姻届の提出はオメガセンターの許可証が必要となる。これがないと役所は婚姻届を受け取ってくれない。
 なのでこちらは、橙子がベータであるうちに結婚する。婚姻届は二十四時間三百六十五日、受け付けているのだから。

「私がこう言ってはいけないんですが、婚姻届は本人が書かずとも受理されます。もちろん犯罪行為で、有印私文書偽造や、公正証書原本不実記載等の罪になりますが……」
「構わない」

 誉がキッパリと言い切ったため、浅倉は苦笑を見せつつ話を続ける。提出には誉と橙子の戸籍謄本が必要になると。

「たしか水谷さんの戸籍は、誉さんの会社へ入るときに提出したはずです。私が代理で取り寄せましたから間違いありません」
「……ああ、たしかにあるな。分かった、取りに行く。俺の戸籍も必要なんだな」
「いえ、誉さんは本籍地で婚姻届を出すなら必要ありません」

 そこからの誉の行動は早かった。会社へ向かい橙子の戸籍謄本を回収し、会社の取締役へ明日の業務連絡をしてから婚姻届に記入する。橙子の記入欄は、筆跡の真似を得意とする日下部が記した。ちなみに彼女の印鑑は西村が部屋から拝借している。
 証人欄は父親と義母が記入した。

 午後十一時五十分。
 誉の本籍がある区役所の夜間窓口へ浅倉と共に向かい、ギリギリ二十五日のうちに受け取ってもらうことができた。
 区役所の職員はアルファとベータの結婚に驚いた表情を見せたが、「おめでとうございます」と微笑んで受領してくれた。まだ終わりではないが、とりあえず第一段階は終了である。

 ここでいったん浅倉と別れ、誉は仮眠を取ることにした。が、橙子が泣いているような気配を感じて眠ることができない。または柚香のように世を儚んで……と考えるたびに飛び起きる。
 番となった自分たちは一心同体なのだ。橙子の心が擦り切れているのを見えない絆で感じるため、己の精神まで切り刻まれる。

 ――畜生……よくも俺の橙子を、ここまで傷つけやがったな……

 ギリギリと痛む胸を手のひらで押さえて目をきつく閉じる。この苦しみを癒すことができるのは橙子しかいない。彼女を一刻も早く救わねば自分も死んでしまうと、誰に教えられずとも嫌というほど分かっていた。

 そして翌朝の午前八時三十分。区役所の窓口受付が始まると同時に誉はカウンターへ駆け込んだ。職員の女性は一目見てアルファだと分かるイケメンが、ものすごい勢いで突き進んでくるから仰け反っているが。

 誉はここで婚姻届受理証明書の発行手続きを取る。これは婚姻届を間違いなく受理したと、公的に証明する書類だった。
 婚姻届を提出しても、夫婦の戸籍がすぐにできるわけではない。そのため新しい戸籍謄本ができるまで、これが婚姻の事実を証明してくれる。

 さらに発行されるのを待つ間、離婚届不受理申出の手続きをする。こちらは無断で離婚届を提出されるのを防ぐためだ。
 オメガセンターがそこまでやるとは思えないが、浅倉いわく念のため、とのことだった。

 区役所での手続きを終えてから浅倉と落ち合い、午前九時にオメガセンターの開庁と同時に受付へ向かう。
 そこで誉が、「今すぐ妻を返してもらいたい」と訴えたので、受付から急ぎの連絡を受けた職員が、すでに役所へ向かっていた担当者を慌てて呼び戻した。



 オメガセンターの応接室へ浅倉と共に案内された誉は、十二月二十五日の日付が入った婚姻届受理証明書をテーブルに置く。
 橙子の担当である田村と、その上司の三好が目を丸くして証明書を凝視した。
 誉が冷静な声を出す。

「こちらに妻の八神橙子、旧姓水谷橙子が保護されているはずだ。Ω新法によると既婚の野良オメガが発見された場合、話し合いによって処遇を決めるとあるが、彼女は昨夜から帰宅せず心身ともに弱っている可能性が高い。即時解放を求める」

 三好が証明書を穴が開くほど見つめた後、顔を上げて誉を睨みつけた。そのような視線など痛くもかゆくもない誉は、相手を視線で切り刻むつもりで睨み返す。
 同族アルファが喧嘩を売りにきたと察した三好は、椅子の背もたれに体を預けると、子どもの我が儘をあやすような口調に切り替えた。

「いやぁ、困るんですよねぇ、こういうことをされると」
「なぜ? 妻はアルファと結婚したんだ。オメガセンターの理念にもかなっていると思うが」
「まあそうですけど……、オメガは本籍地でお見合いするのが原則なんです。彼女は広島県の出身だそうで、当地のアルファは喜んでいるでしょうし、彼らの選択肢を奪ってはいけませんよ」
「俺の本籍も広島県だが」
「……は?」
「婚姻届を提出した際、夫婦の本籍を広島県の厳島神社の所在地にしておいた。何か問題でも?」

 嫌みを込めて微笑んだため、イケメンの微笑を目にした田村が頬を染めて俯いた。
 それに対して上司の方は、こめかみに青筋を浮かべてドスが効いた低い声を押し出す。

「そぉいう子どもじみたことを言ってるワケじゃないんですよぉ……こんな反則技で規則を破られたら、こっちはたまったもんじゃないって言ってるんです……!」
「俺もいきなり妻を拘束されて、たまったもんじゃない。これ以上、彼女を解放しないというなら人身保護請求を裁判所に申し立てる」

 人身保護請求――身柄を拘束された者の救済を求める手続きで、よくあるのは離婚協議中の夫婦の子が奪い合いになった際、子どもを取り戻すために利用されたりする。
 この制度を成人の保護に使うと宣言したため、三好の顔が怒りで赤く染まった。かなりプライドの高い男だと思われる。
 誉は三好の心情など歯牙にもかけず、テーブルへ両手をついて身を乗り出し、相手の目を真正面から射貫いた。

「恥の上塗りになりたくなかったら、とっとと妻を解放しろ」

 両者共に相手を殺してやりたい勢いで睨み合うため、三好の横にいる田村がぶるぶると震え出した。
 数秒ほど互いにガンを飛ばし合ったが、先に目を逸らしたのは三好の方だった。
 畜生、と口の中で呟きつつ、それでも諦められないのか声を荒らげる。

「だいたいなぁ、婚姻届なんて昨日のいつ出したんだ! 水谷橙子は警察の聴取で自分は独身だと言ったんだぞ! 俺らだって野良オメガが既婚者なら必ず配偶者に連絡する!」
「だから昨日だよ。ここに日付が書いてあるだろ。クリスマスに入籍したと彼女へ報告しようとしたら、妻が帰ってこないからこっちは眠れなかったんだ」
「んなワケがあるかぁ! オメガだとバレたから慌てて入籍したんじゃないのか!?」
「おまえは警察官か?」
「ああん!?」
「その問いに答える義務はない。入籍の件は別問題だ。俺は今、妻を返せと言ってるんだが、日本語は難しくて理解できないのか?」

 ぎりぎりぎりぎり。三好が歯ぎしりをしたのか、鳥肌が立つほどの気味が悪い音が鳴り響く。それでもまだ諦めきれない執念を見せた。

「……一度、水谷橙子の意思を確認する」
「そうだな。結婚を約束したアルファがいるかどうか、そのアルファと結婚の意思があるかどうか聞いてみるといい」
「ああ、聞いてみるさ! ――田村ァ!」
「はっ、はい!」
「あのオメガにアルファの婚約者がいるかどうか確認しろ!」

 田村と呼ばれる部下が慌てて部屋を出て行ったため、誉と浅倉もいったん引くことにした。
 立ち上がってドアへ足を向けた誉だが、顔だけ振り向いて言葉を放つ。

「今日中に妻と会えなかった場合、人身保護請求は出させてもらう。裁判所に呼び出されたら大人しく出頭しろよ」

 退室してドアを閉めた途端、部屋の中から何かが壊れる音が響いた。



 オメガセンター側は日が暮れるまで、誉と橙子の婚姻を無効または取り消しにできないか検討していた。が、各当事者が望んでいないため無理である。
 ちなみに過去の判例において、カップルの一方が勝手に婚姻届を提出したが、その後、もう一方も婚姻を追認(事後同意)したため、婚姻は届出時にさかのぼって有効というものがある。

 誉は日が暮れるまで待たされる羽目になったが、午後六時半になってようやく、橙子と共に面談の場を設けるとの連絡が入った。
 浅倉と共に指定されたオメガセンター近くのホテルへ向かい、すさまじいほどの仏頂面を隠さない三好に案内されてエレベーターに乗り込む。

 ――やっと会える。橙子……

 どれほどこのときを待ち望んだことか。
 最上階に近い部屋へ三好に続いて入ると、真っ先にひどく顔色の悪い彼女の姿をとらえた。
 ずっと泣いていたと分かるその様子に心が痛い。眠っていないのか、一日半ほど離れていただけなのに、とてもやつれて見える。もしかしたら何も食べていないのかもしれない。あれ以上、痩せてどうするつもりだ。
 橙子がこちらを見た途端、素早く立ち上がったので思わず両腕を伸ばした。
 泣きながら抱きついてくる細い体を受け止める。

「誉さん……っ!」

 もう二度と会えないかもと恐怖に怯えた、最愛の女性の温もりと香りを強く抱き締めた。





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